中ノ尾供養碑

中ノ尾供養碑付近は、「ゴウマイガ辻」「中尾」「富ヶ峰」の陣として諸記録にあらわれる。文明16年(1484)都於郡(現在の西都市)城主伊東祐国の飫肥城攻略以来、軍事上の拠点として陣営が置かれ、合戦がくり返された。特に天文18年(1549)4月2日の戦闘は激しかった。飫肥城主島津忠広らが、この地に布陣していた伊東軍を午前4時頃奇襲して、守将伊東治部少輔以下300余人を討ち取ったといわれている。
中ノ尾供養碑は舟型光背をもつ地蔵菩薩碑で、この碑を建立したのは、飫肥城の一角にあった金剛院(現在の田ノ上八幡神社の西)の開山朝遍と伝えられている。
朝遍は、島津氏の意向を受け、相手方である伊東方戦死者の霊を慰めるため、合戦のあった年の11月にこの陣営跡に建立した。
項目 | 詳細 |
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種類 | 石塔 |
文化財指定等 | 国指定 |
指定年月日 | 1934年8月9日 |
所在地(官報・文書等の記載) | 日南市大字殿所1405番地ロ |
近隣集落・小字 | 殿所 |
年代 | 中世 |
所有者/管理者 | 日南市/日南市 |
関連文化財群 | 伊東と島津の中世城郭群 |
保存活用区域内 | 伊東と島津の中世城郭群 |
出典 | 日南市指定文化財一覧 (日向地誌) |
備考 | 埋蔵文化財包蔵地 本村の西板敷村境、中ノ尾の絶嶺にあり。銘「造作五逆罪常念地獄(蔵)尊遊戯諸地蔵(獄)大悲代受苦天文十八年己酉十一月十六日本願朝遍一結衆敬白」の42字。右傍「天文十八(1549)年卯月二日當陣責落」の13字。左傍「三東軍兵三百餘人討死為之導容也」の15字。島津氏に属する僧徒の創建。 |
更新日:2023年12月01日